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福永健志 (Fukunaga Takeshi)代表取締役
- 生年月日
- 1974年生まれ
- 生まれ
- 兵庫県尼崎市
- 育ち
- 尼崎市
- 現在
- 尼崎市
- 資格
- 二級建築士・宅地建物取引主任者
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1. 生まれ育ちは尼崎
兵庫県尼崎市の労災病院にて1974年に長男として出生。
父、母、僕、弟、妹の五人家族で文化住宅(6畳・3畳・台所)2階の凄く狭いアパートで育ちました。お恥ずかしい話ですが、幼少期は父がかなりファンキーで色々と商売を始めるも全て失敗・・・
借金も膨らみ水道電気ガスのライフラインもよく止まっており、当時から人見知りで人付き合いが苦手だが
神的に愛情深い母は食事もろくにとらずに僕達のご飯を何とかしてくれていました・・・。
父はやはりファンキーですので家には帰ってこず、たまに帰って来ると暴れまくる始末・・・。
夜中は借金取りの取り立てが家に来てとても恐怖な日々でした。
愛情深い母親に抱かれてる僕ですw
尼崎の下町わんぱく坊やでした(笑)そんな環境を見かねて、ご近所の方々は「これ食べなさい」と言って差し入れに食料を持ってきてくださったりと、
とても温かい地域環境で育ち周りの方々のお陰で無事健康に育ち今に至ります。
思い返すと、当時どんなに辛くとも母が父の愚痴をこぼすどころか「お父さんも良いところがあるんだよ」
と言っていたそんな母を守れない事が凄く辛かったですが、社会に出て母を守れるようになった頃には今は亡き父にも
感謝できるようになりました。 -
2. 社会にで出てから
県立尼崎市立西高等学校を中退し友達の親の会社にアルバイトとして行ったつもりが行ってみると中学の大先輩ばかりいる、
これまたファンキーな会社に入ってしまいました・・・。職種はヘーベルハウスなどの外壁を貼る「ALC工職人」 先輩達に明日も迎えに行くからなと言われ抜け出せない羽目になりました・・・。
物凄くスパルタな親方と兄弟子達で「男の仕事はできてナンボや!!」で口より先に手が出る様な会社でしたが、
仕事を覚え自分でこなせるようになると、きちんと1人の男として打ち合わせもしてくれたりと信頼関係が出来、
16歳~24歳までの8年間お世話になったという感謝の気持ちがにわかに芽生え迷っていた頃、 「ALC工なら直ぐに独立しても軌道に載せれる・・・しかし一職種しか分からない知識量で満足していいものか?・・・」この葛藤に悩みに悩み抜きましたが、結論は一から家を建てれる知識を身に付ける修業を決断しました。
決断した日に親方に退職を申し出、翌月から再就職活動に入る事となります。 -
3. 再就職
再就職活動では当時インターネットも普及してなかったので、就職情報誌のanやデューダとゆう雑誌などで設計事務所や建設会社などに 電話をし面接に挑んでいました。 11社面接してもらいましたが、ことごとく不採用・・・理由は中卒という事と無資格という事と履歴書に書いたコメントです。
コメント内容は「30歳で独立を希望している為、一人前になるまではお給料はいくらでも構いません。
今は無資格ですが人の三倍努力し 早急に仕事を覚え会社に利益が出るように努めます」と書いていましたので面談して頂いた社長さん達に
「そんな世の中甘くないよ~職人としてはプロかもしれんけどこの仕事ホンマに頭使わんと出来んからウチでは難しいなぁ」とよく言われ かなり悔しく思いましたが、履歴書の内容は正直な想いでしたので一度たりとも変えませんでした。さすがに「次が無理だったら諦めて大工修業できるところを探そう・・・」そんな想いで最後の工務店の面接に挑みました。
半ば諦めて開き直っていたのもあって、いつもはスーツで面接に行ってましたが普段着でラフな格好で面接に挑むと、初対面の社長は 今までに面接でお会いした社長の中でも非常に真面目そうな社長でした。
そんな社長と対面した瞬間「なんでスーツ着てこんかったんや・・・また不採用や。。。」と個々のロ中で呟いてました。
「採用なら後日連絡入れます」との社長の言葉を最後に面接を終え、家に帰って大工募集している会社を探すも雑誌にはそういった会社は 全く無く、友達に大工してる人居ないか連絡を取りまくりますが当ては無く、数日経ったある日、電話が鳴り 「一緒に頑張りたい」とのありがたいお言葉を頂き無事採用!!
入社2年目の慰安旅行前職の社長に拾って頂いたお陰で24歳~30歳まで家造りを学べ、履歴書に書いた宣言通りに独立し今の遊友建築工房が誕生しました。
本当に今でも社長は僕の中で偉大で器も大きく尊敬してる人です。
現場監督時代!がむしゃらに勉強しました! -
4. 独立から現在
2004年7月1日から個人事業として「けんちく屋さん遊友建築工房」を開業。
開業当時は自分の給与も出ず、一緒に起業してくれた仲間の給与を支払うのも困難で、国金や銀行もなかなか融資が下りにくく 街金融数社から借りては返しを繰り返しておりましたが「普通の工務店と違う家造りをする」とゆう揺るがない目標があったので 絶対に伸びると根拠のない自信を頼りに何とか関係者の協力もあり壁は乗り越えられました。
新社屋へ引っ越し記念撮影(旧社屋前にて)その御恩を小さく少しかもわかりませんが、出来る事から恩返しできる何かを見つけていきたいと思っております。
このYUYU PARKの無償レンタルスペースを少しでも尼崎市民の方々に活用して頂き、
お互いの相乗効果となって幸せになるよう輪を広げて頂いて少しでもお役に立てれば僕の頑張る生き甲斐にも繋がって嬉しく思いますので
今後ともご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します。